SIGHTS KYOTOコワーキングスペースの契約企業のメンバーやニシザワステイの取引先、SIGHTSに関わる方々に向けてお届けするビジネス対談企画「SIGHTSNESS」。
第4弾のゲストは、スーパーコンピューター(以下、スパコン)の最前線でキャリアを重ね、自らの会社「エクストリーム-D株式会社」を立ち上げた柴田直樹さんをお迎えしました。スパコンは専門家や一部の研究開発者だけの世界と思われがちですが、柴田さんはもっと身近なインフラにしていくことを目指しています。柴田さんの世界最速級の開発を経て起業へと至った、その道のりを伺います。
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土木からスパコンへ。異色のキャリアの始まり
徹生:本日はありがとうございます。まずは、柴田さんがスパコンの世界に入られるまでの経緯を教えてください。
柴田さん:生まれは千葉県で、地元の木更津高専では土木工学を専攻していました。「世界で一番硬いコンクリートをつくる」という研究をしていましたね。IT業界の資格は持っていませんが測量士の資格は持っているという(笑) 当時関東で唯一の土木工学科のある高専だったので、求人数も多かったんです。だから20歳で東京の建設コンサルタントで河道計画設計という河川の構造物に関する設計の社会人としてのキャリアをスタートしたんです。
徹生:それがなぜIT業界へ?
柴田さん:実際に仕事をしていると「もっと速く設計したい」と思うようになってくるのですよね。当時は処理速度の速いPCを全員が持っているわけではなかったので、取り合いになっていたほどです。一番速いコンピューターをつかって河川の洪水シミュレーション行っていたのですが、システムの定期点検でそのコンピュータメーカーのエンジニアさんがきて、ちょっと自分のプログラムを調整するだけで数時間かかっていた処理が30分と劇的に速くなった。それが衝撃で。「かっこいい!」「すごい」と思って「自分もこの人になりたい」と、憧れのままこの業界へ飛び込んだんです。
徹生:土木業界からITと、まったく異業種への挑戦がスタートしたんですね!
世界最前線での挑戦
徹生:そこからはどのようにキャリアを重ねていったんですか?
柴田さん:IT業界ではベンチャー企業に最初は入ったのですが、そこがスパコン関連の会社で。 そこからいろいろご縁があって、日本ヒューレット・パッカード(当時のコンパックコンピュータ)のスパコン部門にエンジニアとして入社しました。ちなみにそのときのリーダーが、僕が憧れたあのエンジニアさんだったんですよ!日本屈指のスパコンエンジニアだったんです!
徹生:え!すごい出会いですね!
柴田さん:僕のことは覚えておられませんでしたが(笑)
徹生:当時はどのように仕事を進めていたんですか?
柴田さん:スパコンの世界は著名な大学や研究所や大企業の方々が中心した学術的な世界で、当時20代だった自分は一番下っ端で、とにかく技術やノウハウを吸収するしかないという状態でした。土木業界時代から、僕は学歴コンプレックスを抱えていた部分がありました。ですが、スパコンという業界ならどんどん新しいものが出てくるので、それを一番にできるようになればついていけるのではと思っていました。当時から担当していたのは、IT業界では別名「アーキテクト」とも呼ばれるものです。建物、コンピューター、その中にオペレーティングシステム、自分たちがやりたいソフトと何層もある、つまり巨大な建造物に似ているんです。コンピューターの知識だけがある人と比較すると、僕はどの層の知識もあるのでスキルアップのバイパスの役割を担えたんですよね。また、学術系の先生方は最先端の研究をすることが主目的だったので、僕は9割方、製造業や自動車メーカー、建設業といった民間のビジネス直結の現場に集中したんです。人に聞くこともできないので、自分でやるしかない。それが経験値を上げてくれましたね。
徹生:その後はマイクロソフト社に転職したんですよね。
柴田さん:はい。日本のスパコン業界はトップが変わらず後輩も育たないという状況が続いていたので、海外で挑戦したいと思うようになりました。とはいえ、勤務地は東京で、日本企業がお客様でした。マイクロソフトを経て、スパコンの米クレイ(Cray Inc)に入社しました。ずっと憧れていた会社で、ここに行けたら本望だというような名門。学歴がないので実績を武器に「日本最速のスパコンを作りたい!」とオンライン面談で訴求したんです。「1年だけ雇って!」と。実際に当時日本最速のスパコンを作り、1年で退職しました。
徹生:まさにサッカーでいう“レアル・マドリード”に入団するような感覚ですね。
柴田さん:そう、本当に夢のような環境でした。
起業とスタートアップの試行錯誤
徹生:そこから起業に至るのはどういう流れだったんですか?
柴田さん:クレイを退職してしばらくフリーランスで活動をしていたんですが、大規模な案件が来て「これは個人じゃ無理だ」と。そこで2015年に法人化して「エクストリームデザイン(2017年よりエクストリームに社名変更)」を立ち上げました。1ヶ月くらいで法人化の準備をしたんです。
僕は品川区で起業したので、同年9月に品川区立のコワーキングスペースを拠点にしながら走り出しました。城を構えたようで気合いが入りましたね。コワーキングをするとスタートアップ企業がたくさんいて、取材を受けている代表の方を横目で見ながら「すごいな。あのようにならないとな!」なんて思っていました。
徹生:起業してからはどのように事業を運営していったんですか?
柴田さん:ICCパートナーズのスタートアップコンテスト(ピッチ)や、アジアのベンチャースタートアップ(Tech in ASIA)のピッチなどで入賞し、ベンチャーキャピタル様やエンジェル投資家に興味を持っていただきつつ、資金を調達しながら、2017年末にシリーズAの資金調達完了したくらいまではイケイケどんどんでやっていました。そこから急降下していったんです。
徹生:急降下ですか?どのような?
柴田さん:僕はそのころ「スパコンを民主化する」をビジョンとしていて、「誰でも使えるモノを作る=それを作れる技術がある人を雇わなきゃいけない」と思ってしまった。大手での経歴を重視し技術を重んじていたんです。でも彼らは僕に共感しているわけではなかった。その結果One Team で仕事をすることが難しくなってしまったんです。加えてコロナ禍に突入しリモートワークになるとより問題が顕在化されてしまったんですよね。
さらに資金も足りない。案件の入金サイクルが長いので、キャッシュフローをどう回すかに頭を抱えていました。コロナ禍のときはさらに厳しかったです。新規案件がなかなか醸成できず、「このままじゃ来月で資金が尽きる」という瞬間が何度もありました。
徹生:その状況をどう乗り越えられたんですか?
柴田さん:結局は「人」ですね。創業時のコアメンバーと一番つらい時に残ってくれたメンバーは今も活躍し続けてくれているんですが、経歴や技術だけでなく、「誰と一緒にビジネスをしたいか」。僕の思いに賛同し、モチベーションを高くいてくれる人と一緒に仕事をするようになって、チームがまとまり始めました。スパコンのような巨大な装置を扱うビジネスでも、最終的に事業を前に進めるのは人だと痛感しました。底を打つ経験をしたからこそ、何があっても『大丈夫』と思える精神が土台にできた。ポジティブ変換できるようになると雰囲気も変わって、一気に好転していくんですよね。一昨年くらいから生成AIが一般化するようになって、「スパコンのクラウドサービス」が脚光を浴びるようになり「スパコン」「生成AI」がキーワードで上位に挙がってくるようなるにつれ、問い合わせや依頼が増えてきた。そして会計年度10期目でようやく黒字転換できたんです。
徹生:おー!すごい!おめでとうございます!
京都を開発拠点に!SIGHTS KYOTOとの出会い
柴田さん:事業が上向きだしたときに、2つ感じたことがあるんです。1つは有名になること。僕たちの事業は自信をもっていいサービスだから、知ってもらえれば買ってもらえることがわかった。だから、知ってもらいたいということ。もう1つは、賛同してくれて高いモチベーションで働いてくれる仲間をどう作っていけるかという課題です。
これに対して今年やってみようと思った施策の1つが関西圏のお客様のために関西に拠点を作ろうということでした。
徹生:それで京都市の誘致事業を通して、SIGHTS KYOTOに視察に来てくれたんですよね!
柴田さん:そうなんです。僕と経営管理を担当している役員で視察にきたんです。彼女は品川区立の創業支援施設元職員で、2021年に一緒に働かないかと僕が誘ってお願いしたんです。
徹生:コワーキングスペース運営に長けた鋭い目でSIGHTS KYOTOもチェックしておられたんですよね。
柴田さん:そうですね。SIGHTS KYOTOの決め手は、外国籍メンバーが多くいる中で「京都」へのワクワクがあったことと、コワーキングスペースはどこも清潔でスタイリッシュななか「町家」という点がユニークだったこと、何より西澤ご夫妻のプレゼンです。「施設として設備を見て」ではなく「全体を見て」というスタンスだったんです。何十人もが利用するわけではないので、オフィスとしてのハコの大きさや機能性よりも、「誰とやるか」を重視したんです。
徹生:そういう経緯で、御社の研究開発拠点としてSIGHTS KYOTOを選んでくださったんですね。
柴田さん:「当社の関西拠点では香の漂う町家のなかでコードを書く」、というワークスタイルは技術者にとってはかなり魅力的なようです!
徹生:嬉しいです!
「人」を軸にした少数精鋭のビジネスモデル
柴田さん:京都にエンジニアの拠点を作ったことで、僕たちと一緒にやりたいという企業を増やしていければなと思っているんです。僕らはクラウドサービスを販売し、ほぼ自動化もできているけれど、販売やサポートという「人間味」は絶対失ってはいけないと考えています。これから何百人の規模になってオンラインサービスをして…なんてことは考えていない。顔の見えないサービスはしないと考えています。スーパーコンピュータの研究開発という仕事は、ユーザー10万人いないと話にならないという市場ではなく、例えば、100社の企業でビッグビジネスになる客単価のとても高いビジネスなんですよね。だからこそ僕らにしかできないことを丁寧にしていきたいと思っています。
採用に関しても、これまでの失敗を糧に「どんな経験も実力も、当社に来た瞬間、その人の能力はゼロになる」ということを認識している人を探すということを大切にしたいと思っています。どんなすごいIT企業での経験があっても、結局…
徹生:1からやり直せる人ですよね!
柴田さん:そうなんです。そうじゃないと難しい。もっと、大企業のメーカーから役員やOBを呼んでチームを作るのが、きっと楽なんですけど、僕らはそうじゃない。
徹生:そうするのが王道なら、真逆をいってますよね。OBの紹介だから商品やサービスを使っているということになってしまうし。
柴田さん:そういう「無理な押し込み営業」で取ったお客様は、僕らのサービスが好きで買ってくれるわけではないので、ちょっと使ってすぐ解約しちゃったりするんですよ。でも、この人たち頑張っているなって弊社を評価・信頼してくれて納得して買ってくれたお客様は簡単に解約をしないんですよね。僕らはBtoBのビジネスなので、横着せずに今後もやっていくだろうと思っています。
徹生:営業代行などで売り上げを伸ばすというモデルもあるなかで、丁寧に顧客と関係を作っていくというモデルは京都っぽいなあと思うんです。京都って基本的にバーンと売り上げてバイアウト、みたいな考え方はなく、長くお付き合いする風土があるので。スタートアップのカルチャーではなく、丁寧な顔の見えるお付き合いをしているんだなと感じました。
スパコンを「誰もが使えるインフラ」に
柴田さん:僕はこのスパコンを大小企業問わず誰でも使ってもらって、どの国にも負けないものづくりができる企業体になってほしいという思いがベースにありますし、自信もある。ですが、お客様の悩みを聞き取ってアジャストしていきたいと思っています。
スタッフはほんとうに細かく丁寧にお客様とのコミュニケーションをしてくれるんです。たとえば、パートナー企業の創業記念日を把握してメールでお祝いの言葉を添えたりね。そういう丁寧な関わりをして、信頼関係が築かれていくんだろうと思っています。
徹生:ほんとうに丁寧なお付き合いですね。最後に、今後の展望を聞かせてください。
柴田さん:日本は確固たるエンタープライズ市場がある、そのなかで、サービスを認知していただき使ってもらって、「あれ使ったよ」と企業間で話題になるようになれば嬉しいですね。空港や駅の広告なんかで「この商品の90%のシェアがうちの会社です」みたいなコピーがあるじゃないですか?ああいうのが理想。ベンチャーってどうしても敵対勢力が出てくる部分がありますが、そっと広がっていって抵抗勢力が「気づいたときには遅かった」ってなってほしい(笑)
徹生:10年前までは本当に研究機関などでしかスパコンって使われていなかった印象なんですが、AIが出てきて本当に民間企業でも使える時代に追いついてきたんだなと思いますね。
柴田さん:2016年に雑誌の取材を受けたときに「スマホから操作するスパコンの世界」を語っていたんですよ。あのとき言葉にしたことが今実現できていて、今度はそれをどう使うかというフェーズに入っているんですよね。言霊というか、言葉にするとそれが近づいてくるんだなと思いますし、伸びしろのあるメンバー皆で夢を実現していけることは嬉しいですよね。SIGHTS KYOTOに拠点を置いたことも、僕らにとって大きなチャレンジの一つ。そして外国籍スタッフが一人で関西に来ても安心できる家ができたことが、嬉しいんです。
徹生:そう言ってもらえると僕らもすごく嬉しい!柴田さん貴重なお話をありがとうございました。なんか今でもお話の余韻でまだワクワクしています。またぜひお話聞かせてください!







